“支援”ってなんだろう? ― 助けられる側から、支える側へ
脳性麻痺の当事者として生き、今は福祉の現場で支援者として働く私が、かつて「支援される側」だった頃の思い、そして「支援する側」に立った今の気づきを綴りました。支援とは何か、その本質に迫る物語です。</p><h2>目次</h2>
<ul>
<li><a href=”#intro”>1. はじめに ── 「支援される側」の日々</a></li>
<li><a href=”#thanks”>2. 「ありがとう」を言い続ける日々の中で</a></li>
<li><a href=”#supporter”>3. 支援者になったとき、世界の見え方が変わった</a></li>
<li><a href=”#right”>4. 支援することは、正しさを押しつけることじゃない</a></li>
<li><a href=”#equal”>5. 対等であることの難しさと、大切さ</a></li>
<li><a href=”#value”>6. 支援される側だったからこそ、できる支援がある</a></li>
<li><a href=”#conclusion”>7. まとめ ── “支援”という言葉の奥にある関係性へ</a></li>
</ul><h2 id=”intro”>1. はじめに ── 「支援される側」の日々</h2>
<p>私が初めて「支援される」という感覚を意識したのは、小学生の頃でした。学校には“付き添いの先生”がいて…というわけではありません。私は小学部からずっと特別支援学校に通っていたため、付き添いという感覚すらなかった。むしろ、支援されることが「前提」のような、そんな空間で育ちました。</p>
<p>だからこそ、違和感も持たないまま、支援は日常の中に溶け込んでいました。誰かが手伝ってくれるのも、移動や食事、学習の場面で工夫してくれるのも、「そういうもの」として受け入れていたのです。</p>
<p>でも、大人になった今思うのです。あれは「支援」だったのだと。そして、それがどれほどありがたく、同時にどれほど“特別な構造”だったのかにも、少しずつ気づいていくようになりました。</p><h2 id=”thanks”>2. 「ありがとう」を言い続ける日々の中で</h2>
<p>「ありがとう」は、素敵な言葉です。私もよく使います。でも、支援される側に長くいると、この言葉が義務のようになってしまう瞬間があります。</p>
<p>駅で手伝ってもらった時。飲食店で裏口を案内してもらった時。自分としては「ありがとう」と言いたい。でも、どこかで「ちゃんとお礼を言わなきゃ」「感謝を伝えないと感じが悪いかも」と思っている自分がいる。</p>
<p>それが積み重なると、「ありがとう」が自分の気持ちじゃなく、<strong>関係性を保つための言葉</strong>になっていくんです。言葉にするのが難しいけれど、それはちょっと、切ないことでもあります。</p><h2 id=”supporter”>3. 支援者になったとき、世界の見え方が変わった</h2>
<p>そんな私が支援する側に回ったのは、就労支援や放課後等デイサービスの現場に立ってからでした。最初は「自分にできるのかな」と不安でした。でも、やってみて分かったことがあります。</p>
<p>支援者って、「正解を持ってる人」じゃないんですよね。「その人と一緒に考える人」なんです。</p>
<p>昔の私は、支援を「受ける」ことに慣れていて、正直ちょっと遠慮しながら生きてきた部分もありました。でも今は、自分が誰かと一緒に考える立場になって、「支援」ってこんなに対話的で、試行錯誤の連続なんだと知りました。</p><h2 id=”right”>4. 支援することは、正しさを押しつけることじゃない</h2>
<p>支援の現場にいると、「こうした方がいい」「こっちの方が効率的」という“正しさ”に出会うことがあります。でも、それがその人にとっての“幸せ”とは限らない。</p>
<p>たとえば、時間通りに動けない子に「こうしよう」と提案する。でも、その子にとって大事なのは「自分のペースで過ごせること」だったりする。正しさよりも、<strong>心地よさや納得感</strong>の方が大事なんだな、と現場で何度も学びました。</p>
<p>支援することは、導くことではなく、<strong>伴走すること</strong>。それに気づけたのは、支援される側だった自分の感覚が残っていたからかもしれません。</p>
<p>また、専門職として支援に携わっていると、「こうすべき」という根拠や経験を持っているからこそ、無意識のうちに<strong>“専門性という名の正しさ”を押し付けてしまいそうになる瞬間</strong>もあります。それはもしかすると、「障害者だからって低く見られたくない」「バカにされたくない」という、当事者としての自分のプライドが裏返って出ている部分もあるのかもしれません。</p><h2 id=”equal”>5. 対等であることの難しさと、大切さ</h2>
<p>支援には、どうしても「する側」と「される側」の力関係が生まれがちです。でも私は思います。本当にいい支援って、そこに“対等さ”があるものじゃないかなと。</p>
<p>支援する側が「してあげてる」という意識を持った瞬間に、対話は止まります。「される側」が萎縮してしまったら、その人の本音は届かない。</p>
<p>だから私は、支援の場でも「教えてください」という姿勢を持ち続けたい。相手の人生の専門家は、他ならぬその人自身だから。</p><h2 id=”value”>6. 支援される側だったからこそ、できる支援がある</h2>
<p>私には、支援されてきた実感があります。だからこそ、支援を受ける側の「気まずさ」や「心の揺れ」に敏感です。</p>
<p>ちょっとした手伝いでも、「助けて」と言うことは勇気がいる。誰かに頼るとき、「ちゃんと感謝しなきゃ」「迷惑をかけてないかな」と思うことがある。</p>
<p>そんな気持ちを、自分がわかっているからこそ、<strong>私は寄り添える支援者でいたい</strong>と思います。支援って、制度だけじゃなく、気持ちの余白をどう作るかでもあるから。</p><h2 id=”conclusion”>7. まとめ ── “支援”という言葉の奥にある関係性へ</h2>
<p>「支援」って、言葉にすればシンプルだけど、本当はすごく繊細な営みです。</p>
<p>私は、支援されてきたことに感謝しています。でも、時には苦しさもありました。そして今、支援する側に立って、ようやくそのバランスの難しさや尊さに気づきました。</p>
<p>これからも私は、支援を“押しつけ”ではなく、“対話”として届けていきたい。助ける・助けられるじゃなく、一緒に歩く、そんな関係をつくっていきたい。</p>
<p><strong>“支援”ってなんだろう?</strong>――この問いに、私はこれからも向き合い続けていきます。</p>
- 障がい者との関わり方
- 当事者目線, 福祉って面白い, 福祉に興味ある人とつながりたい, 福祉のリアル
- コメント: 0
この記事へのコメントはありません。