「普通でいたい」「普通になりたい」――
障害を持って生きてきた私は、何度もそう思ってきました。
特別支援学校に通っていた子ども時代、
双子の兄と自分を比べてしまった思春期、
健常者の世界に飛び込んだ大学時代。
でも、今はこう思います。
普通じゃなくていい。
むしろ、自分らしい道を歩くことこそが、
本当の意味での「普通」なのかもしれない。
今回は、そんな私が「普通」という言葉とどう向き合い、
自分らしい道を見つけてきたかをお話しします。
目次
- 普通とは、何だろう?
- 1. 双子の兄との違いに気づいた日
- 2. 特別支援学校で学んだ“違い”の意味
- 3. 大学で飛び込んだ“健常者の世界”
- 4. 思い込みの“普通”に直面した経験
- 5. 無意識の偏見に気づいた瞬間
- 6. 最後に ― 一人の行動が、社会を変える
普通とは、何だろう?
「普通」という言葉は、辞書的には「特別なことがなく、ごくあたりまえであること」や「平均的、標準的であること」を意味します。
でも、それは誰が決めるのでしょうか?
私が考えるに、社会の中の「普通」は、多数派によって構成されているものです。
たとえば、健常者の生活様式や価値観が社会の標準として形づくられ、
そこから外れる人は「特別」とか「例外」と見なされやすい。
多くの人が「普通」でありたいと思うのは、
安心したいからです。
周囲と同じであることが、自分の価値や安全を保障してくれるように思えるからです。
けれど、その「普通」の枠に自分が当てはまらなかったとき、
人は不安になったり、劣等感を抱いたりします。
私もずっとそうでした。
障害のない兄と自分を比べ、社会での「平均的な生き方」と自分の生き方を比べ、
何度も「普通ってなんだろう」と悩んできました。
1. 双子の兄との違いに気づいた日
私には双子の兄がいます。
小さい頃は、同じように遊び、同じように笑い、
「違い」なんて意識することはありませんでした。
でも、成長するにつれて、兄はスポーツをし、友達と出かけ、
自由に動ける世界を広げていきました。
私は車椅子に乗り、特別支援学校に通い、
徐々に兄との“距離”を感じるようになっていきました。
2. 特別支援学校で学んだ“違い”の意味
特別支援学校に通ったことで、私は「違い」を当たり前のように受け止めてきました。
クラスの仲間たちも皆、何らかのハンディキャップを抱えていて、
「できること」「できないこと」がそれぞれ違うのが前提の環境。
だからこそ、無理に背伸びをしたり、比べたりする必要がなかったのです。
でも心の奥では、「自分も兄のように、普通の学校に通えたら」という憧れや悔しさが、
ずっとくすぶっていました。
3. 大学で飛び込んだ“健常者の世界”
大学では、健常者の友人たちに囲まれ、最初は緊張の連続でした。
だからこそ、私は最初に名刺を配りました。
「こういう障害があります」「できないことがあります」――そう正直に伝えることで、
友人たちが関わりやすくなると思ったのです。
すると、ある日友人にこう言われました。
「お前といると、お前に障害があること忘れるわ」
その言葉が、私にとってどれほど嬉しかったことか。
“普通”に見せようと頑張る必要はない。
自分を偽らずにいられる場所を、少しずつ作っていけるのだと気づきました。
4. 思い込みの“普通”に直面した経験
あるとき、私の事業所に営業で訪れた人が、
「管理者の方をお願いします」と言いました。
私が「私です」と答えると、
相手は一瞬戸惑ったような表情を見せ、
その後、まるで私が言葉の意味を理解できないかのように、
ゆっくり、大きめの声で「管理者の方、呼んできてくれる?」と言ったのです。
きっとその人の中には、
「管理者=健常者」「車椅子の人=理解力がない」という無意識の認識があったのでしょう。
こういう出来事に出会うたび、私は思います。
“普通”とは、多数派の勝手な思い込みがつくるものなんだ、と。
5. 無意識の偏見に気づいた瞬間
一人で買い物に行ったとき、店員さんから
「一人で買い物、偉いね」「お小遣い帳に書かなくていいの?」
と言われたことがあります。
そのとき私は笑顔で、こう伝えました。
「もう大人なので大丈夫です。
私には平気ですが、他の方には言わない方がいいかもしれませんよ。」
その瞬間、店員さんは「しまった」という表情を見せ、謝ってくれました。
私がそのとき伝えたことが正しい判断だったかは分かりません。
でも、私は信じています。
そのとき、あの方の“普通”が、少しアップデートされたんじゃないかって。
6. 最後に ― 一人の行動が、社会を変える
普通というものが多数派によって作られたものだとするなら、
私はその多数派の中に臆せずどんどん入っていきたいと思っています。
「こういう考え方もあるんだ」「こういう人もいるんだ」と、
相手の中の“普通”をアップデートするきっかけになれたら、
それが私の大きな役割だと思うのです。
そうした行動の一つ一つが、
個人の問題ではなく、社会の側にある障害を取り除いていくのではないか。
単純接触効果 ― 小さな積み重ねが偏見を変える
心理学には「単純接触効果」という考え方があります。
これは、人は何度も接したものに対して、
より好意や親しみを感じやすくなるという心理的な現象です。
たとえば、最初は見慣れない隣人に戸惑いを感じても、
毎朝「おはよう」と挨拶を交わしていくうちに、
だんだんと心の距離が縮まっていく――そんなイメージです。
障害に対する偏見や誤解も、
日常の中でのささやかな接触の積み重ねによって、少しずつ変わっていくはずです。
学校のクラスメイトとして、職場の同僚として、
地域の住民として、一緒に過ごす時間が増えることで、
「障害のある人」という枠が薄れ、
一人ひとりとして自然に受け止められていくのです。
一人の行動が、社会を変える
私は信じています。
たとえ小さなことでも、
一人ひとりの行動や言葉、態度が積み重なることで、
社会全体の意識や空気は少しずつ変わっていきます。
だから私はこれからも、
日々の行動や関わりの中で、誰かの中の“普通”を優しく揺さぶりたい。
それが、私にできる小さな挑戦であり、
社会を少しずつ変えていく大きな一歩だと信じています。
あなたの行動も、きっと誰かの心を動かします。
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