“かわいそう”のその先へ ― 見られる側から、生きる側へ
リード文:
ある日、通りすがりの人に言われた「かわいそうね」という言葉。
悪気がないことはわかっていたけれど、胸の奥に何かが残った。
私たちは、いつから“見られる側”になってしまったのだろう。
この記事では、そんな視線とどう向き合い、自分の人生をどう歩んできたのかを綴ります。
障害のある人の声が、もっと当たり前に社会の中に響くことを願って。
目次
- 「かわいそうね」と言われて
- 優しさの裏にある“上下”
- 「見られる側」から「生きる側」へ
- “支援される存在”というイメージの壁
- 自分の言葉で、自分の人生を語る
- 支援者に伝えたい ― 対等であるということ
- 最後に ― 生きるということの主体性
1. 「かわいそうね」と言われて
街を歩いていると、時折かけられる声があります。「かわいそうね」「頑張ってるね」「偉いわね」。
どれも、優しさからの言葉だとはわかっています。けれどその言葉の奥には、どこか“上からの視点”が含まれているように感じてしまうのです。
2. 優しさの裏にある“上下”
「ありがとうございます」と素直に受け取れない自分に戸惑いながら、私は考えました。
「ありがとう」と言ったあとに、「私、めっちゃいいことした」と話す人たちを見て、モヤモヤが残りました。
そこにあるのは、“してあげた”という構造。
そして、自分は“される側”として存在しているという感覚です。
3. 「見られる側」から「生きる側」へ
ずっと、誰かに「どう見られているか」を意識してきました。
でも、大学で一人暮らしを始めたことで、「自分がどう生きたいか」に意識が向くようになったのです。
“見られる人生”から、“生きる人生”へ。視点を変えるだけで、こんなにも景色が変わるのかと驚きました。
4. “支援される存在”というイメージの壁
社会には、「障害者=支援される側」という固定的なイメージが根強くあります。
もちろん、支援が必要な場面もあります。けれど、それが「常に一方的に助けられる存在」だと思われることに違和感を覚えます。
5. 自分の言葉で、自分の人生を語る
私は、福祉の現場で働くようになってから、「語ること」の意味をより強く感じるようになりました。
当事者として、支援者として、自分の言葉で伝えることの大切さ。
そうすることで、“かわいそう”というフィルターを外し、対話が始まると感じています。
6. 支援者に伝えたい ― 対等であるということ
支援とは、「上から与える」ものではなく、「共に考え、共に選ぶ」プロセスであるべきです。
社会福祉士として、管理者として、そして当事者として活動してきた今、私はそのバランスに常に悩み、模索しています。
ナチュラルサポートという概念があります。それは、制度や専門職によらない“自然な支え合い”を意味します。
そうした関係性こそ、対等な関係の出発点なのかもしれません。
7. 最後に ― 生きるということの主体性
私たちは、障害があることで“見られる存在”として扱われがちです。
でも、見られることに慣れすぎて、自分を語ることを忘れてしまってはいけないと、今は思います。
「見られる側」から「生きる側」へ。
そのために必要なのは、社会が変わるのを待つことではなく、自分自身の一歩かもしれません。
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